8時、雲に包まれていた山々の稜線が見えてきた【写真下】。昨日、ロープウェイで上がった山頂が見えた。今あの稜線に立てば、雲海の上に朝日に輝く峻険な山並、ロス ピコス デ エウロパ<LOS PICOS DE EUROPA>(2648m)、ナランホ デ ブルーネス(2519m)などが展望出来るに違いない。どんなにか素晴らしい景観であろう・・・見上げながら溜息が出た。しかし、個人旅行ではない悲しさ、我がままは許されない。諦めざるを得なかった。 |
姿を現した稜線 |
高床式の穀物倉庫 |
9時、パラドールを出発した。霧の晴れたピコス・デ・エウロパの山塊を未練気に見送っていたが、バスは瞬く間にデバ川<Rio Deva>が流れる美しい渓谷を走っていた。エルミダの山峡を抜け、再び高速に乗ると、カンタブリア海<Costa de Cantabria>が見えてきた。
11時半、山道に入ったあたりでトイレストップ。農家の庭に、ねずみ返しの付いた高床式の穀物倉庫があった【写真上】。意外な発見であった。スイスで見かけるねずみ返しは、丸い平らな石を用いているが、此所では四角で厚い板が使われていた。この高床式倉庫は、スペインではこの地方だけでしか見られないということだった。高床式倉庫といえば、日本の東大寺・正倉院の宝庫が有名である。何か繋がりがあるのだろうか?ルーツを探れば、面白い発見があるのかも知れない。 間もなく、コバドンガに着いた。
◆ コバドンガ<Covadonga> (コバ=洞窟、ドンガ=マリア)
伝説的英雄であるドン・ペラーヨ【写真下】が、『我らの希望はキリストにあり。この小さな山はスペインの救いとなるであろう』の言葉を残しているそうだ(彼が立っている台座に、この言葉が刻まれていた)。ここは、ローマ法皇も訪れたことがあるという、スペインにおけるキリスト教の聖地である。
718年に、ドン・ペラーヨがアストリアス王国を建国、侵攻してきたイスラム軍と戦いコバドンガで初めて勝利した。その後700年にわたって国土回復の為の戦争(レコンキスタ)が続いたというが、ドン・ペラーヨの言葉どおり、スペインで不幸な事件が起きると、ここに安置されている『戦いの聖母』は汗を流し、人々に知らせ、祈りを捧げることで事を鎮めてきたという。その聖母が安置されているサンタ・クエバ<SANTA-CVEVA>:聖なる洞窟【写真下】には、参拝する信者の姿が絶えないようであった。 |
◆ バジリカ聖堂 【写真上】
ネオ・クラシック様式で建てられた教会。丁度ミサの最中であり、中に入ることは出来なかった。
◆ オビエド観光
13時半、バスはオビエド<OVIEDO>に到着。町中のレストラン『アストリアス』にて昼食。
(マカロニと魚貝類の煮込み/イカ墨ごはん/プリン/水付)
昼食を済ませて、オビエドの観光に出発した。人口20万人、アストリアス<ASTURIAS>地方の文化経済の中心都市である。バスで一巡した。現代建築の先端を示す建物があり【写真】、コロニアルハウス【写真】やサンフランシスコ公園が町の歴史を語るとおり、20世紀初頭に南米から5万人の人々か帰郷、町に富と風変わりな建物をもたらしている。古い寺院などとも調和が図られてあり、おおらかで活気に満ちた町であると思った。 |
コロニアルハウス |
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現代建築のビル→ |
◆ 可愛い少女
街の賑やかな通りを歩いていたら、赤いドレスの可愛い少女に出会った。広い通りの大勢の人で賑わう街中にあって、その深紅のドレスはひときわ目だち、にこやかな笑顔の少女は光り輝いていた。見とれていたら少女に気付かれ、少女はにっこり笑ってくれた。咄嗟にカメラをみせてOKか?、と聞いた。少女は頷き、嬉しそうにポーズを取ってくれた。気取ってみせるその可愛い姿に、過ぎ行く人も振り返って見とれた。年の頃、15・6才か。小柄でおでこの広い可憐な少女であった。多分フラメンコの踊りに出かける途中であったのだろう。その画像、事情があってここに添付出来ないのは残念であるが、オビエドでの唯一心ときめく出会いであった。
◆ サンタマリア・デル・ナランコ教会
それは、町外れのナランコ山の中腹に、一つだけ孤立して建っていた【写真下】。ロマネスクの先駆けとなったプレロマネスク様式の教会。もともとは9世紀にラミロ1世が離宮として築いたものらしい。1階に風呂場があり、2階にはバルコニーが付いている。905年〜1065年にかけては、教会として使われたので、現在も教会と呼ばれている。 |
サンタマリア・デル・ナランコ教会 |
サンタミゲル・デ・リーリョ教会 |
◆ サンタミゲル・デ・リーリョ教会
ナランコ教会と同じ時代のもので、プレロマネスク様式である。ナランコ教会から更に5分位山道を上がった山間に、ぽつんと建っていた【写真上】。どことなく小じんまりとした不思議な造りであるが、後の時代に改築されたので、当時のもので残っているのは3分の1位らしい。2階には王と妃の座が在り、壁にはロ−マ人を描いたフレスコ画やレリーフが残されていた。察するところ、当時の王は、ローマに憧れていたようだ。
◆ カテドラル
もともとはプレロマネスク、それがロマネスクに改築され、ついでゴシックとなり、現在はフランボワイン・ゴシック様式(16世紀)と言われている。(フランボワインとは、炎が燃えさかる様な外観を意味している。)
内部は14世紀の祭壇【写真下】、15世紀の身廊、16世紀のファサード、南塔。ここにはアストリア王国の王墓があり、極めて重要な場所となっている。 |
◆ 旧市街の散策
鉄の通り<鍛冶屋(かじや)街>、ここから南塔が綺麗に見えた【写真上】。鉄の通りや広場【写真上】には鍛冶屋たちが造った人物【写真】や動物【写真】が置かれてあった。
牛乳市場→魚市場→泉の広場、とぶらぶら散策をして、カフェにてシドラ(リンゴ酒)の試飲をした。ボーイが、シドラのびんを高く掲げて、下に構えたグラスの中に注ぐ、という芸を見せてくれた【写真】。でも、シドラを、もう一杯飲んでみたいとは思わなかった。 |
◆ レオンへ
17時、レオン<LEON>に向かって出発。
レオンの歴史は古く、遅くともキリスト誕生の74年後には、すでにその存在が確認されているそうだ。ほぼ2千年の歴史をもっている街であるが、紀元前ローマ時代から、戦略的に重要な位置を占めてきたようだ。街の名前も”軍団”という意味のラテン語Legioから来ている。
ドン・ペラーヨが建国したアストリアス王国が10世紀になってレオン王国に合併吸収され、これが後のスペイン王国の母体になったといわれているが、その首都であったのが、現在のレオンである。人口13万の小さな地方都市である。
海抜822mの街レオンを取り囲む壁は、ロ−マ帝国時代そのままの姿を保っているといわれるが、見る事は出来なかった。
18時半、レオンの町に入ると、町外れに建つサッカー場に向かって大勢の人の流れがあった。近くの道は駐車した車で埋まり、交通が渋滞していた。スペインのサッカー熱は大変なものだと聞いているが、通りに溢れんばかりの人の波をみてそれを実感させられた。
今夜の宿は、旧サンマルコ修道院を改築したパラドールである。スペインが誇る最も格式高い五つ星のホテルである。18時50分、期待のパラドールにチェックインした。
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先導役の少女 |
花嫁と父 |
◆ 結婚式
夕食迄の時間を使って、同じ建物内にある教会を訪ねてみたら、丁度結婚式が始まるところであった。先導役の可愛い娘が二人【写真】、花束を持って祭壇に向かって進み、続いて父親にエスコートされた純白の衣装の花嫁が、深紅の絨毯を淑やかに進んだ【写真】。人生、最高に幸せなバージンロードである。花嫁はほのかな笑顔をベールに隠し、花嫁の父は厳粛な固い表情で歩いて行った。複雑な心境なんだろうな、と思う。祝福する大勢の人たちが拍手で迎えた。こんな豪華な教会で挙式出来るカップルは、それだけでも大変幸運なカップルなのであろう。列席している人たちの衣装も、エリ−ト階級らしい雰囲気に溢れていた。 |
◆ 豪華なディナー
ライトアップされたパラドール |
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21時、パラドールにて夕食。ここは格式が高いことで有名なレストランである。皆さん、さすがである。見事にドレスアップした服装で勢揃い、しばしお互いに観賞し合いながらの談笑。それだけでも気分が高揚するのを感じるのだから面白い。黒い制服のボーイに案内されてレストランに入る。左右に沢山のテーブルが並び、食事を楽しむ人々は大勢いたが、日本人の姿は見かけなかった。用意されていたテーブルは一番奥のコーナーであった。少しだけ気取って、いつもより賑やかな雰囲気の中で食事がすすんだ。温野菜のスープ/アンコウのクリームソテー/クリームパイ/コ−ヒ−・紅茶・ワイン・水付。さすがに洗練された味であった。
夕食後、満ち足りた気分でしばし広場を散策した。ライトアップされたパラドールは黄金色に輝き、一段と豪華な眺めであった【写真】。パラドールのすぐ横には大きなベルネスガ川<Rio Bernesga>の流れがあった。川に架けられたローマ橋(サン・マルコス橋)の中程まで歩いてみたら、川面にそよぐ夜風に乗って、どこからかカエルの鳴く声が聞こえてきた。ワインでいくらか火照った顔に夜風が心地よく、カエルの声が妙に懐かしく思えた。今回の旅も、もう2日を残すだけである。 |
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