★ 2001 南イタリアとシチリアの旅
イタリア国旗  ◆ 5日目(4月1日) 【旅の全体地図】 目次へ
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【マテーラ周辺地図】
【本日の旅程】=アルベロベッロ→マテーラ→モラノ・カラブロ→コセンツァ(泊)

◆ 棒になってしまった左足
 毛布一枚では寒かった。明け方は浅い眠り。夢ばかりみていた。
目覚めて直ぐに、足を動かしてみた。おや?・・・さ程の痛みは感じなかった。寝ている間に予想以上の回復をしてくれたらしい。湿布薬が効いたんだな、それに昨日の痛いマッサージもよかったんだ・・・嬉しくなって、ベッドから降りた。歩こうとしたら、強い痛みが走った。がっかりである。まだ、ふくらはぎの筋肉を動かすことは出来なかった。やむなく、足首が動かないよう左足は棒にして使うしかない。家内の背中に掴まってぎこちなく、ゆっくり歩いた。我ながら情けない姿だと思いながら。


◆ 神も見捨てた土地
 8時半、マテーラ<Matera>に向って予定通りスタートした。
アルベロベッロもこれから訪ねるマテーラにしても、南イタリアのこの辺りは「神も見捨てた土地」といわれる程の苛酷な条件の地帯であったらしい。冬は雪が降り、夏は猛烈な暑さに耐えねばならず、厳しい自然環境に見切りをつけた人たちの流出が続き、最近まで過疎地域とされていたのだそうだ。しかし、そうした厳しく苛酷な環境に生き続けてきた人々の文化遺産が、世界の遺産として評価され、そのことが世界から人を呼び寄せることになり、再び活気を取り戻しつつあるというから皮肉である。



廃墟と化した マテーラ旧市街
◆ 貧しさが造った文化遺産
 アルベロベッロのトゥルッリも、そもそも土地開墾の為の労働者を多数住まわせる為に造られた簡易住宅であり、しかも税金逃れの為に壊し易く工夫されたものであると言われている。そのことが結果として極めてユニークな家屋を造り出すことになった訳だ。
 マテーラは大規模な洞窟住居としての遺産が注目を集めているが、これはいかにも厳しかったこの土地での生活を今に伝える貧しさの象徴的な文化遺産だと思う。ガイドによると、もともと自然の侵食による洞窟があったそうで、8世紀頃から人が住み始め、20世紀初頭まで次第に拡大膨張して、遂にはスラム化したので、現在はほとんど廃墟【各写真】と化している。しかし今もなお住み続けている人たちがいた。「よほど物好きな人が住んでいるんでしょうな」と添乗員。静かでいいかもしれないと思う。

展望所から眺める、廃墟と化したマテーラ旧市街


◆ モップの柄
 バスがマテーラに着いて車から降りた時、空はどんより曇ったままで陽が射さず、予想以上に寒かった。予定よりも早く到着したせいもあり、未だ現地ガイドの姿はなかった。僕は、とても一緒には歩けないので、絵を描き乍ら待っていることにしたいと申し出ておいた。家内をはじめ何人かの女性がバスに戻った。ドライバーに荷物室を開けてもらっているので、防寒対策にセーターでも取り出そうとしているのかな、と思って眺めていた。ところが、ドライバーのアンジェロは次々に全部のドアを開けては何かを探している様子である。はて?と思っていたら、最後に1本の棒を取り出した。みんな笑顔で手を叩いている。目的の物がみつかったらしい。それは、モップの柄であった。僕に杖代わりに使わせようと言う木製の長い棒であった。
◆ 情けない姿
 彼女たちの思いやりに感謝しつつ、一足遅れてともかく歩いて行ってみることにした。写生の道具を入れたザックを背負い、野球帽にジーパン姿で、一人長いモップの柄に縋り乍らヨッコラ、ヨッコラ歩いて行ったのである。行き交う人々の視線がまとわりついた。どんなにか哀れな姿に見えていることであろうと思うと、我ながら、情けないやら可笑しいやら。中には痛々しそうな表情で立ち止り、同情の眼差しを隠そうともしないで見つめてくる婦人もいた。「遂に憐れみを誘う姿にまで零落れてしまったか・・・!」なんて自嘲もしたが、そんなことなどかまってなんかおられない。一生懸命歩いた。
 何とか、展望所【写真上】まで辿り着くことが出来たら、皆さんはこれから遺跡をひと回りしてくると言う。又、此処に帰ってくるというので、それまでこの場で写生に取り組むことにした。寒さに震えながらも、一枚仕上げることが出来た。満足である。
マテーラ旧市街でのスケッチ
◆ トゥベティーニ
 昼食は、新市街【写真】の小さなレストランでいただいた。店はスペイン人が経営しているらしく、壁には沢山の闘牛士の写真や絵が飾られ、ポスターも沢山貼られていた。余程、闘牛が好きなオーナーなのだろう。しかし、出された料理は勿論イタリア料理であり、メインはトゥベティーニ【写真】。貝の形をしたマカロニに海老やタコ・貝など海の食材が混ぜ合わせて作られてあり、たいへん美味しいものであった。ピザやスパゲッテイ、そしてマカロニ料理など、毎日イタリアならではの料理を、いつも美味しいなーと思い乍ら頂いている。それに、安くて美味しいワインがふんだんに飲めるというのも嬉しいことである。


昼食のトゥベティーニ

マテーラの新市街


◆ 過疎地帯を走る

ターラント湾沿岸のオリーブ畑
 バスはターラント湾<Golfo di Taranto>の直線的に長い海岸線に沿って淡々と走った。穏やかに広がる海面の淡いブルーが地平線に霞んで消え、それは眠くなるような眺めであった。行き交う車も極めて少なく、道に平行して鉄道線路もあったが、走る列車に出会うことはなかった。道の両側にはところどころオリーブが植えられてあったり【写真】、海岸近くや道の両サイドには茸形の松の並木が続いていたり、その松でトンネルのようになっている並木道もあった。暑い日差しを凌ぐために植えられたものであろう。土地は小石まじりの痩せたもののようであり、思い出したように人家が現れるだけで、人影を見ることもなかった。ここいら一帯は、広い範囲にわたって過疎地帯であるらしい。
 やがて道は二つに別れ、バスは海岸から外れて右側の道を選ぶと山並を右に眺めながら走り、次第に山並に接近していった。それは、イタリア半島に背骨のように連なるアペニン山脈の山々であった。その南端に位置する山域に、これから訪ねるコセンツァ<Cosenza>の町がある。
 空は暗くなり厚い雲間から時おり光りが差したが、気持ちの晴れない景色が続いた【写真下】。連なる山々の頂きは雪雲に覆われ雪で白く輝いて見えた【写真下】。南イタリアの、その南の外れで雪山を見ようとは、思ってもみないことであった。


曇り空の下を行く

雪山を遠くに望む


◆ 道草

モラノ・カラブロの街
 只ひたすらに走るだけではつまらない。途中の山中にモラノ・カラブロ<Morano Calabro>という小さな集落があり【写真】、そこの山頂には古いサンピエトロ寺院とフリードリッヒ2世が造ったといわれる城が残されているらしい。20分位道草していきませんか、という添乗員の提案に全員賛成、バスはその集落へ登る細い道に分け入った。
 その小さな集落が、遠くの小高い山肌にびっしり張り付くようにして在るのが見えた。集落に入ると、メインの通りには黒い衣装の老人たちが佇み、寄り合い、例外なく我々のバスを見上げていた。「よっぽど珍しいんでしょうな」と添乗員。いわんや日本人を見るなんて、生まれて始めてのことかもしれない。何しろへんぴな山の中、観光ルートからは完全に外れている集落であるからだ。
 山頂まではかなりありそうだ。バスで行ける所まで行ってみようと走り出したが、それらしき道が見つからず、引き返してみようにも細い山道ではそれも叶わなかった。Uターン出来る場所を求めて前に進むしかなかった。集落が眼下に小さく消えてしまってなおしばらく走り、ようやくUターンすることが出来た。勿論、アンジェロも初めての道だと言っていた。地元のドライバーに尋ねて、城への細い道を発見。集落より少し上まで行くことが出来た。そこにはバス駐車場があり、此所が寺院と城への登り口であった。僕を入れて3人が留守番、全員元気に山頂目指して出掛けていった。
 足元に見たこともない草花が咲いていた【写真】。沢山寄り添って咲く小さな花々はすべてうつむいた姿であり、色形相まってしおらしく可憐な風情を見せていた。展望もなく退屈したので、棒に縋り乍ら別の山道を登ってみた。修理中の城を見上げる事が出来た【写真】地点で、すぐに引き返した。全員が戻ってきた時間に5分と遅れた訳ではなかったらしいが、待っているはずの僕の姿が見えないので大声で呼んだり、クラクションを鳴らしたりして心配したのだそうだ。申し訳ない事であった。トイレを済ませて、バスはすぐに出発した。ほんの20分位の道草のつもりが、はるかに一時間を越えていた。

可憐な草花
 
修復中の城を見上げる→

◆ コセンツァ <Cosenza>
 7時20分、中心から3キロ郊外の新しく開発されつつあるアメリカ風の近代都市に今夜宿泊するホテルが在るはずだと言う。すこし迷ったが地元の少年に尋ねたりしながら、そのホテル・ヨーロッパの看板を見つけることが出来た。通りには「レーニン通り」とか「ケネデイ通り」という標識があって笑ってしまった。ホテルは他のビルと同じような形であり、少しの個性も感じさせないものであった。食事をして、寝るだけのホテルである。よしとしよう。

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