★ 2001 臼杵・国東半島の旅
 ◆ 2日目(3月8日) 【旅の全体地図】 目次へ
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【本日の旅行地図】
【本日の旅程】=別府→国東半島訪問(真木大堂、熊野磨崖仏、富貴寺、両子寺)→別府(泊)

◆ 湯の町別府に雪が降る
 目覚めてカーテンを引いたら、西に居並ぶ山々の上空には厚い雪雲が張り付き、東の海面上空は青く光り輝く空が美しく眺められた。別府の町並は山に向う斜面に展開しており、山麓に近い所からは幾筋もの湯煙が立ち昇っている。明るく爽やかな景観をみせ始めた町に、雪が舞い始めた。風と共に優しく舞う雪は淡く細やかで、朝日を浴びてそれは一層美しく感じられた。最初風花かな?と思ったが、やはり雪であった。西の上空から舞い降りてくる雪であった。
 今日は1日、別府在住の友人U夫妻が僕ら4人の観光案内をしてくれることになっている。9時、約束通りホテルまで来てくれた。早速、レンタカーを借りに別府駅前に行き、白い車体のトヨタ『ヴイック』(1000cc)のドライバーとなる。U夫妻の車に従って、国東(くにさき)半島の観光に出発した。


◆ 六郷満山(ろくごうまんざん)
 国東半島は“み仏の里”として有名である。かって6つの郷から成り立っていたらしいが、その各々の郷に次々に建立された寺院を総称して六郷満山と云い、その六郷満山文化(仏教文化)が花開いたのが、奈良時代末から平安時代にかけての中世である。現存する寺社の数が3千を超え、仏像は3万体を超え、石造品は数えることが出来ないと云われている。当時のけんらんたる活況が偲ばれて余りある数値である。少しだけ事前に予備知識を仕入れてきたのだが、ともかく“百聞は一見に如かず”である。初めての六郷満山、いつも初めて訪ねる土地には、心ときめく思いがする。


◆ 真木大堂(伝乗寺)  【本日の旅行経路地図】
 国道10号線を北上、豊後高田市に向って右折した。天気はすっかり曇り空になり、山中には雪が舞い始めた。最初に熊野磨崖仏を訪ねるつもりであったが、積もらないまでも降りしきる雪を眺めて予定を変更、先に真木大堂(まきのおおどう)【写真】を訪ねることにした。入口には公衆電話の仁王像【写真】が立っていた。
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真木大堂
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公衆電話の仁王像

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大威徳明王像
 此処に収蔵されている9体の仏像が国の重文に指定されていて有名なのだが、中でも大威徳明王像は、うずくまる水牛にまたがった異形の像であり、圧倒的な迫力であった【写真】。炎の光背に複数の顔や腕は珍しくないが、またがった足まで複数であるのを見るのは初めてであった。静かな水牛とは対照的に大威徳明王像には、激しい気迫が漲っていた。インドやネパールでの出会いであればさ程には感じなかったかも知れないが、日本のしかも秘境ともいわれるこの地で最初に出会うことになったことが、殊更に印象を深いものにしたのかもしれない。それにしても、当時の人々がこの像に対峙した時、どれ程大きな畏敬の気持ちを抱いたことだろう。僕には想像を絶する世界だったように思われた。
 寺院の庭には国東半島に散在する沢山の石造文化財が集められていた【写真】。中でも国東塔(くにさきとう)と呼ばれる宝塔【写真】はこの半島だけで造られた荘重優雅な石造宝塔であり、納経とか死者の追善供養の為につくられたものらしい。

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庚申塔(青面金剛と三猿)
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庚申塔
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国東塔にて


◆ おみやげ
 駐車場前に土産店が並んでいた。店先に置かれていた椎茸に眼が止まる。大分は椎茸の特産地である。「安いじゃない・・・」。奥方たちのつぶやきをすばやく聞きつけて、美人の店員さんがにこやかに応対した。「まとめて買ってくれればお安くしますよお客さん!」。「嵩むけれども軽いから・・・」。ついでに特産の豆も買い込み、両手に下げたおみやげの品で、車のトランクは一杯になってしまった。何という衝動買い・・・。男共は顔見合わせるばかりである。


◆ 熊野磨崖仏(くまの まがいぶつ)
 雪が小降りになったので、来た道を引き返し、熊野磨崖仏を訪ねた。小型車だけが許される細い山道を上りきった所に、土産店と食堂があり小さな広場を挟んで胎蔵寺が在った。お寺の庭先には、時々雲間に覗く青空をバックに紅梅が見事に咲き匂っていた【写真】。お寺と土産店の間から熊野磨崖仏に通じる道があり、入り口には杖が沢山用意されてあった。此所で拝観料を払い、それぞれ杖を借りて静かな谷筋の道を辿った【写真】。 

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↑胎蔵寺の紅梅   熊野磨崖仏へ向かう→

 間もなく磨崖仏入口の鳥居が在り、そこからは長く傾斜のきつい乱積みの石段が待っていた【写真】。これには鬼が一夜で築いたという伝説が残されていた。聞かされてみれば、いかにもそんな気がする石段であった。杖をつき乍ら慎重に登った。

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乱積み石段を登る
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不動明王像
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大日如来像にて

 息を切らし乍ら登りきると、忽然と左手の岩壁に不動明王像(高さ約8メートル)が現われ【写真】、右手奥に大日如来像(高さ約7メートル)【写真】を拝観することが出来た。この不動明王には、一般の忿怒の形相はなく、むしろ慈悲の優しさが感じられた。一方大日如来の面相には、穏やかな厳しさと荘厳さが感じられた。いずれも半立像であり永年の風雪に耐えてこられたお顔には、風化による幾多の損傷が痛々しく刻まれていた。
 鬼の伝説を知ったせいか、乱積みのその余りにも乱雑な石積み階段を下りながら、鬼が急ぎに急いで作業した様子が偲ばれて可笑しくなった。なんとか無事に下りきることが出来てほっとする。土産店にお邪魔して、生姜入りの甘酒を賞味した。この一服はまことに爽やか、心身が生き返る思いがした。この甘酒は、無事の拝観を祝って友人が奢ってくれた思いやり、感謝・感謝である。


◆ 伝説:鬼が築いた石段
 (お寺でいただいた資料に、鬼の伝説が紹介してあったので収録しておく。)

【紀州熊野から田染にお移りになった権現さまは霊験あらたかで、近郷の人々はお参りするようになってから家は栄え、健康になりよく肥えていた。その時、何処からか1匹の鬼がやって来て住みついた。鬼はこのよく肥えた人間の肉が食べたくてしかたないが権現さまが恐ろしくてできなかった。然しどうしても食べたくなってある日、権現さまにお願いしたら、「日が暮れてから翌朝鶏が鳴くまでの間に下の鳥居の処から神殿の前まで百段の石段を造れ、そしたらお前の願いを許してやる。然しできなかったらお前を食い殺すぞ」と言われた。
 権現さまは一夜で築くことはできまいと思って無理難題を申しつけられたのだが鬼は人間が食べたい一心で西叡山に夕日が落ちて暗くなると山から石を探して運び石段を築きはじめた。真夜中頃になると神殿の近くで鬼が石を運んで築く音が聞こえるので権現さまは不審に思い神殿の扉を開いて石段を数えてみるともう九十九段を築いて、下の方から鬼が最後の百段目の石をかついで登って来る。権現さまはこれは大変、かわいい里の人間が食われてしまう。何とかしなければとお考えになり声高らかに、コケコウーロと鶏の声をまねられたら、これを聞いた鬼はあわてて「夜明けの鶏が鳴いた、もう夜明けか、わしはこのままでは権現さまに食われてしまう、逃げよう」と最後の石をかついだまま夢中で山の中を走って逃げた。平地に出たが息がきれて苦しいので、かついでいた石を放りだし鬼はそのまま倒れて息が絶えた。これを聞いた里人たちはこれで安心して日暮しが出来る。これも権現さまのおかげと朝夕感謝するようになった。】
資料提供:熊野磨崖仏管理委員会


◆ だんご汁定食
 時刻は午後1時を回ってしまった。富貴寺に到着したが、拝観の前にまずはだんご汁定食で腹ごしらえをすることにした。門前に在る食事処『さくら茶屋』ののれんをくぐる。これは国東半島の代表的なふるさとの味覚なんだそうだ。うどん粉のだんご味噌汁仕立てというものであったが、戦前戦後食料が不足していた頃、主食の御飯の代わりに食べさせられただご汁が懐かしく思い出された。今回は、勿論これに白い御飯が付き、山菜におしんこ、酢のもの。野菜さらだも添えられて一人前800円であった。「だんご汁はお代わり自由だよ」と勧められたが、もはやイナーフ、ノーサンキューであった。
 さて、お腹も一杯になり、此所での目的は果たしたような気分になった我々は、次ぎに訪ねる両子寺(ふたごじ)へ向って走りだした。またもや雪が降り始め、ワイパーをつけて安全運転を心掛ける。しばらく走って気がついた。肝腎の富貴寺の見学を忘れていたではないか!


◆ 富貴寺 (ふきじ)
 再度『さくら茶屋』前の駐車場に車を停める。およそ30分のロスタイムであった!ま、いいか、急ぐ旅ではないし、仕方がないわいと笑い合う。
 富貴寺の周辺には100戸位の民家があった。「かっては寺院がムラであり、寺院を中心に集落があり、集落単位に自給自足的な生活をしていた」と物の本に書いてあったが、ここはその名残りを示しているのだろうと思われた。集落はのどかな田園風景の中に在った。
 富貴寺の大堂【写真】は、平安後期に建てられた木造建築であり、昭和27年以降は国宝に指定され大切に保存されているが、かっては子供の遊び場であったこともあると言う。優美な屋根の線、簡素な形であるが周囲と美しく調和して小柄ながらもどっしりとした安定感溢れる姿は、いかにも平安時代を感じさせる。

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←富貴寺の山門   ↑富貴寺の大堂

現在、内陣に安置されている木造阿弥陀如来座像と、当時は堂内一面が彩色され、欄間に認められる無数の優美な姿の平安美人群像重文に指定されている。堂内が暗いのは、彩色された色を保存する為だし、目立つ場所には『撮影厳禁』と記されていた。(この大堂は、実物大で大分県立歴史博物館に保存されていた。)
 参道に土産屋があり、さまざまな郷土の物産が売られていた。ついつい好奇心には勝てず、店に入る。『乾燥いちじく』『干しぶどう』『いもケンピ』『フライ豆』これは自家製の「梅干し」だよ、と勧められて、そんな物まで買い込んでしまった。何だ、なんだ、買い物ツアーじゃないんだよ・・・。



◆ 両子寺(ふたごじ)
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並石ダムを横に、粉雪舞う道を両子寺へ向う
 国東半島の中心とも言える両子山(721m)の中腹あたりに建つのが両子寺である。粉雪の舞い見通しの悪くなった山道を両子寺に向う【写真】。標高が高くなる分、気温も低下するようでとても寒い。
 人影のない参道入口には阿吽二組の仁王像が立っていた【写真】。それは2メートルを超える堂々たる姿であり国東では最大のものであるという(1814年造立)。一般的には仁王門の中の左右に立ってお寺の警護をしているのだが、風雪に曝されながら戸外で睨みを利かしている姿をみるのは珍しい。そこから鬱蒼たる木立の中に苔むした石段が上方へと続いていた【写真】

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阿吽二組の仁王像
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石段の参道

 駐車場は更に坂道を上がった処に在った。見上げる斜面に鐘楼【写真】と本堂が望まれ、入口石段に立てられた沢山ののぼりが寒風に音をたててはためいていた【写真】。参拝するのは我々だけであったが、住職は我々の為にだけお経をあげ、国東の六郷満山について話をしてくださった。

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粉雪舞う 両子寺の入口
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両子寺の鐘楼


◆ 吹雪
 1台だけ赤く燃えていたストーブの上にも扉の隙間から粉雪が舞い込んだ。住職にお礼を言って外に出てみたら、雪は渦を巻き、あたり一面を白い世界に変貌させつつあった。もはやのんびりしている状況ではない。駐車場に急いだ。下る山道は白く美しく眺められたが、ギアをローに落とし、慎重の上にも慎重を期しての運転を心掛ける。雪は衰えを見せず、道路標識の確認も思うにまかせない。勿論チェーンの持ち合わせがある訳もなし、やむなく海に向って退散することにした。予定していた文殊仙寺岩戸寺の参拝は諦めた。吹雪きの為に途中で観光を断念させられることになるなんて、思ってもみない成り行きであった。このことは、きっと忘れがたい旅の思いでになることであろう。


◆ 旅情
 ホテルへ向って国道10号線を走っていたら、宮崎へ250キロという標識が現れた。「このまま走れば、宮崎だよ。6時間位かなーー?」、「でも、やっぱり宮崎は遠いね・・・」そんな会話をしながら山並の向こうに在る僕の故郷に思いを馳せた。親しかった友を思い、あの山並を越えたら誰か知っている人に会えるかもしれない・・・又の墓参のことなど頭をよぎる。あれから、もう1年も経ってしまったんだ・・・。旅に出て感じるちょっと切ない旅情といえようか。

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