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自由の女神像 |
遂にパリ滞在最後の日を迎えてしまった。今日は、ホテルを午後2時半に出発しなくてはならない。パリに到着した時と同じように、帰りも空港まで車で送ってもらうことになっている。それまでの時間を、懐かしいモンマルトル訪問に当てることにした。荷物やその他、あらかじめ帰国の準備を済ませておいて、9時頃ホテルを出た。
◆ 自由の女神像
近くのJAVEL駅からモンマルトルに向かうことにした。駅に行く途中、グルネル橋のすぐ側に建つ自由の女神像【写真】に朝の挨拶をする。今までは、彼女の背中ばかりを眺めてきたが、はじめて斜め正面から眺めることが出来た。ニューヨーク市民が、お礼に贈ってくれた縮小形の女神像である。あいにくの曇り空なので、弱い陰影の姿にしか見えなくて残念であったが、ニューヨークの実物を見たことのない僕としては新鮮な女神像として印象的であった。
◆ 不審モノだ!近寄るな!
高速郊外地下鉄RERのJAVEL駅には、自動出札機しか置いてなく駅員もいなかった。途方に暮れていたら、中年の婦人が助けてくれた。すぐ近くのメトロ駅で乗車券を買えば良い、と。そうだ、メトロ
不審物を観察する駅員 |
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もRERも乗車券は共通であったことを思い出した。BIR
HAKEIMでメトロ6番線に乗り換えシャルルドゴールエトワールへ。更に4番線に乗り換えアンヴェールまで行こうとした時である。
ホームへの通路が異常に混んでいた。ナニゴトゾ?と人波をかき分けて前に出てみたら、駅員が乗客を制して、「近寄るな!」と言っているらしいのである。見れば、ホームの線路側にポツンと手荷物が一つ。あってはならない場所に在る荷物、確かに不審物である。心配した乗客の一人が駅員に通報したのであろう。駅員は用心深く近寄り、観察をした【写真】。爆発物が仕掛けられていたら一大事である。テロによる事件が人の多い場所で頻発している昨今である。乗客も駅員も過剰に反応したのであろうが、僕には、乗客がうっかり置き忘れて乗車してしまったのだろうとしか思えなかった。人騒がせな忘れ物であった。大事には至らず、アンヴェール駅に無事辿りついた。此所がモンマルトルの玄関である。幸いに1時間足らずで到着出来た。 |
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←サクレ・クール聖堂 ↑スケッチ画 |
地上に出て緩やかな坂道を5分位歩くと、丘の上にサクレ・クール聖堂の白く壮麗な姿が現れた【写真】。この街に育ったユトリロをはじめ現在もなお沢山の絵描きが描き続けているあまりにも有名な寺院である。長く続く石段の左手にフニクラの車両が見えた。勿論、乗るつもりはなかったが、観光客が少ないせいか停まったままであった。ゆっくり石段を上がった。聖堂に近付くにつれ、街の展望が眼下に広がった。陽がさしてくれないかなぁ〜と空を仰いでみても無駄であった。まるで雪曇り。すぐに降り出しても不思議ではない寒さであった。しかし、折角此所まで来たからには・・・寒さに負けてはいられない。一度上まで上がったのだが再度石段を下り、中程の地点から聖堂を見上げて写生することにした。寒さに閉口したが、絵の具が凍る迄には至らず、幸いであった【写真】。
◆ テルトル広場
何とか一枚描き上げることが出来たので、モンマルトルの丘を少し散策してみる。先ずはテルトル広場を訪ねた。レストランやカフェに囲まれたこの小さな広場は、以前から似顔絵描きで賑わう場所であり、観光名所にもなっている【写真左】。「描かせて下さい」、「1枚どうですか・・・」達者な日本語で話しかけてくる絵描きもいた。さすがにこの寒空である。観光客も少なく広場は閑散としていたが、一人だけ若い女性がモデルになっていた【写真中】。絵描きに気づかれないように後から描きかけの絵を覗き込み、「とても素晴らしい!」とモデルの女性に合図を送ったら、ニッコリ笑って嬉しそうであった。描きためた油彩画を展示即売している画家もいた【写真右】。 |
流しの似顔絵描きもたくさんうろうろしていた。皆、スケッチブックを胸に抱えて寒そうであった。凡そ100年昔、此処に集った沢山の若き芸術家たちは、貧しさの中で情熱を燃やし、技を磨き、芸術論に時の経つのを忘れる日々を送ったと語り継がれている。さぞ活気に満ちていたことであろう。そんな事を思いながらぼんやり絵描きたちを眺めていたら、ほとんどの絵描きたちは中年以上かなとお見受けした。所詮、過ぎ去って今はない歴史の1ページであったようである。
◆ アトリエ洗濯船跡
モンマルトルといえば、ユトリロやピカソ、ロートレックなど沢山の芸術家が愛し集った街である。後世、エコール・ド・パリと称せられる盛り上がりをみせた時期があり、日本人芸術家として名を残した藤田嗣治(ふじた つぐはる)もその中の一人である。当時、ピカソをはじめドガやセザンヌ、ルノアールらもアトリエを構えていたといわれる「アトリエ洗濯船」跡を訪ねてみた。それは、木造の安アパートであったらしいのだが、残念ながら1970年に火災で消失していた。現在はその場所を文化的歴史史跡として指定・保存していたが【写真】、其処には窓の一部が残されているのみであった。ウインドウに展示されていた写真などで、かろうじて当時の様子を偲ぶことが出来た。【写真】。その写真によると、アトリエ前の広場は以前のままのようであった【写真】。 |
「アトリエ洗濯船跡」史跡前 |
ショウウインドウの中 |
若き日のピカソ |
当時の面影を残すアトリエ前の広場 |
偶然、近くに風車でも有名なかってのダンスホール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(現在はレストラン)を見つけた。オルセー美術館にあったルノワールの絵に描かれてあった場所である。時間も無いので、入口を眺めただけで退散した。其処からモンマルトルへ続く商店街の細い石畳の道には、今なお昔の面影が色濃く留められているように思えた【写真】。名残りを惜しみつつ、1時、同じ駅から乗車、同じ路線を利用してホテルへと引き返した。 |
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モンマルトルの街並 |
← ムーラン・ド・ラ・ギャレット |
◆ セーヌ河に別れを惜しむ
約束の時間までには、少し余裕がありそうなので、ビル・アケイムで下車、セ−ヌ河に沿って歩いて帰ることにした。駅前に架かるビル・アケイム橋の中央に騎馬像があった【写真】。それは勢いよく天駆ける騎馬であり、それが目指す先には、エッフェル塔が建っていた。生憎の曇り空に包まれた姿は、孤独であり寂し気であった。最後の見納めになるやも知れないと、いささかの感慨に耽りながら、しばし別れを惜しんだ。 |
其処から再度セーヌ河の真ん中に造られた『白鳥の小道』【写真】を歩いてホテルに向かった。歩きながら川岸に係留されている沢山の色んな種類の船を眺めてみると、それぞれの船内にはセーヌ河と共に生きている人たちの様々な生活があるようであった。川岸の木々の枝が寒風に揺れ、遊覧船が走る水面に細波が広がり、小道を歩く僕らを運搬船がゆっくり追い抜いて行くと、長い船体のその黒い積載物の上方を沢山の車が追い抜いて行く。その向こうに立ち並ぶいかにも都会風なビルの眺めを楽しみながら歩いていたら、何時の間にか自由の女神像のすぐそばに来ていた。後姿だが、記念に1枚写真を撮り【写真】、再度振り返ってエッフェル塔にも別れを告げた。
短い1週間であったが、結構楽しめた。後は、日本までの長い機中の時間を、出来るだけ楽しく耐えるのみである。(終わり) |
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