★ 2001 南イタリアとシチリアの旅
イタリア国旗  ◆ 4日目(3月31日) 【旅の全体地図】 目次へ
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【本日の旅行地図】
【本日の旅程】=ソレント→デル・モンテ城訪問→アルベロベッロ(泊)

◆ 快適なバスの旅
 今朝も雨模様の肌寒い天気である。厚い雲が垂れ込め、気温もぐんぐん低下していく感じであった。南イタリアで、寒さに震えることになろうなんて、思ってもいない事だった。
 8時、今日も予定通りスタート出来た。メンバーが全員元気だし、全員が決められた時間をしっかり守って行動出来るのは、基本とは言え嬉しいことである。しかし、何よりも嬉しいのは、信頼出来る腕のいいドライバーに出会え安心して乗っている事が出来ることである。ドライバーの名前は、アンジェロという。
 メンバーとは、お互い大分気心も知れるようになり、バスの中は和気あいあいの雰囲気が出てきた。積極的になごやかムードを盛り上げてくれる男性コンビも現われて、いつも笑いの発生源になっていた。明るくてよく頑張る添乗員もご機嫌のようである。目的地アルベロベッロ<Alberobello>までほぼ200キロ、その間添乗員が興味あるガイドをしてくれた。彼はよく勉強しているし、話題が豊富、しかもなかなかの話上手であった。お陰で、バスの旅はより楽しいものになった。一つだけ残念に思えたのは、バスはトイレの設備を持っているのにも拘わらずそれを使うことが出来なかったことである。しばらく、バスは暖房を入れ乍ら走り続けた。


◆ デル・モンテ城 <Castel del Monte>(世界遺産) 【本日の旅行地図】
 南イタリアは肥沃な大地なのだろうか。どこまで走っても、麦、ぶどう、オリーブなどの優しい緑の畑が続き、それらは果てしない広がりを見せていた【写真】。 


オリーブ畑

小麦畑


デル・モンテ城
<Castel del Monte>
 そんな緑の中に咲く、さくらによく似たアーモンドの花が綺麗であった。緩やかにひろがる大地の中に一段と盛り上がった丘があり、その上にカステル・デル・モンテの姿が遠くに見えてきた。それは、薄く黄褐色に輝いていた。
 近付いて眺めてみると、八角形で出来た城の、その周壁に更に八角形の塔(高さ24m)を八つ付けた独創的な形態をしていて極めてユニークな城塞であった【写真】。これは、かって13世紀前半にこの地を支配していたフリードリッヒ2世が築いたものであり(彼は1220年、神聖ローマ帝国皇帝に即位、一生の殆どを南イタリアで過ごし、各地に200以上の城塞を築いている)、添乗員の話によると、最初は狩猟場の宿泊施設として造られたものであり、その後要塞として、一時は牢獄としても使われたことがあると言う話であった。現在は黄褐色の石壁だが、かっての石壁は色大理石で埋め尽くされ、「丘の上の黄金の王冠」とも呼ばれていたそうである。


◆ アクシデント
 「ビリッ!」・・・音がしたように思えた。
城塞を撮影していた時である。メンバーの一人に、城を背景に入れて記念の一枚を撮ってほしいと頼まれた。普通レンズのカメラには、城はいささか大きすぎて納まらなかった。やむなく、アングルを下げて撮影しようと斜面に立ってカメラを構えた。その時、体重をかけた左足が滑った。咄嗟に踏み堪えたが、左足のふくらはぎは小さく悲鳴を上げた。「ヤッテシマッタ・・・かな」冷静に受け止め乍ら、とりあえず「良く撮れたよ!」と頼まれたカメラを手渡した。彼は嬉しそうに城の中に消えた。
 経験はないが、多分肉離れだろう、と思った。骨折した訳ではないし、深刻に考える程のことでもあるまい。それにしても、困った事態になってしまった。思いもかけないアクシデントである。兎も角、メンバーに迷惑をかけないで済むよう対処しなくては・・・。案の定、左足は次第に痛みが強くなり、歩くのが困難になってきた。城門につづく緩やかな坂道も到底無理だと判断、一人ゆっくりバスへと引きかえした。家内にだけそっと、足を傷めてしまったことを打ち明けた。しばらく様子をみるから内緒にしていてほしい、と。


◆ 観光を断念

トゥルッリのあるレストランのテラス
 アクシデントに遭ったのは、丁度12時頃であった。12時20分、バスはアルベロベッロに向けて発車した。持ち合わせの薬の中に、バンテリンがあったので塗りこんでみた。やはり、まるで関係ないみたいだった。ふくらはぎは次第に固く腫れ上がっていくようだし、どのように処置したらいいものか、途方に暮れてしまった。やむなく、添乗員に報告し、善後策を相談した。13時40分、アルベロベッロ<Alberobello>のレストランに到着した。
 添乗員は地元のガイドと相談、迅速に行動してくれた。ともかく病院で医師に診てもらうこと、地元に只一人住んでいる日本人女性に助力を求めたらすぐに応じてくれたこと、幸いにして今夜宿泊予定のホテルの前が病院であり、その病院での診察に付き添ってもらえることになったと言う。僕は病院で下車し、メンバーは予定通り観光するということになった。
 今回の旅の大きな楽しみの一つが、実はこの町の観光であった。それは世界遺産にも登録されたトンガリ屋根のトゥルッリが並ぶ町並であり、絵になりそうな景観だと期待しながら今日の日を楽しみにしていたのである。折角此所まで来たのに、眺めることすら出来なくなったのは誠に残念無念である。だが、仕方がない。せめてものレストランの庭に造られてあったトゥルッリをカメラに収めて諦めた【写真】。僕にとって、これが唯一枚だけの貴重な画像になってしまった訳だ。


◆ 救急病院へ
 嬉しいことに食事が終った頃、助力に応じてくれた日本人女性が、自家用車でレストランまで来てくれた。此所から直接病院に案内してくれると言う。他にも仕事が入っているので、急いで事を運びたいと言う訳だ。ラエラ・陽子さん。清楚な容姿でいかにも聡明そうな美人であった。家内は観光しようとすれば出来ない訳ではなかったが、諦めて共にひと足

お世話になった医療スタッフ
先にレストランを後にした。ドライバーは誠実そうなイタリア男性であった。日本語も英語も出来ないそうだが、僕の腕を支えながら慎重に車まで付き添い大事に扱ってくれた。聞けば、彼女のご主人。彼女はこの男性とこの地で出会い、唯一人の日本人として10年近い歳月を共に生きているのだそうだ。親切なご夫妻に心から感謝した。
 今日は土曜日の午後だが、緊急の患者は受け入れてくれるという。この町に一つだけの救急病院でもある訳だ。たまたま玄関に出ていた看護婦に直接診察室まで案内してもらった。待つ間もなく、赤ら顔の大柄で快活そうな医師が現われた。男性助手と看護婦の見守る中で、通訳の陽子さんを通じて説明する。医師は腫れ上がったふくらはぎを両手でそっと包むように触診しながら、「若い頃はサッカーでもしていたのか?」と聞いた。「山登りを少しだけ」と答えると頷いた。右の足のふくらはぎも触診して、「大丈夫、心配ない。ホテルで静かに休んでいることだ、塗り薬の処方せんを出しておこう。」診察は簡単に終了した。そして、診察代は要らないという。助手も看護婦もニコニコしている。此所は町一番の大きな病院なのである。それなのに、いとも簡単に診察代は要らないと言う。一瞬、呆気にとられてしまったが、ぐぐっと嬉しさがこみ上げてきた。なんと言うおおらかさ。3人のスタッフに感謝のお礼を述べて、写真を撮らせてほしいとお願いした。彼等は嬉しそうにポーズをとってくれた【写真】。ほんとうに、ありがとう。気さくで明るい対応に、足の痛みも忘れてしまう程であった。これも、南イタリアならではの心ときめく出会いであり、お国柄ということであろうか。


◆ 村で評判の整体師?
 陽子さんのご主人が勧めてくれた。この村には大変評判の整体師?がいるので診てもらったらどうだ、と。病院では何も手当てしてくれなかったし、と二人が熱心に勧めてくれる。そうだな、どうせ今日は歩けないことだし、せっかくの勧めだ、と受けることにした。
 車は、広いぶどう畑の中の細い道を、何度も曲がりながら走った。そして、大きな農家の広い庭に滑り込んだ。そこには3台の乗用車が駐車していた。評判通り繁盛しているらしい。コンタクトなしで来たから、診てもらえるかどうか聞いてくると言い、夫妻は車から消えた。一見して、何処が玄関なのか分からなかったが、OKしてもらえたと言い乍ら何所からともなく姿を現した。日本的に言うならば、此所は、裏庭であろう。下着などの洗濯ものが沢山干してあった。そして勝手口と思えるところからグラマーな美女が現われ、こちらへと言うのでついていくと彼女は洗濯ものをかき分けて診察室?へ入った。僕らも洗濯ものの下を潜って明けっ放しのその部屋に入った。はっきり言って物置き用の土間であると思った。3畳位の薄暗い部屋に粗末な椅子が3脚あるのみ。小柄な年老いた男が家族に支えられ乍ら、整体師の治療(マッサージ)を受けていた。その整体師と思われる人物は、小柄な80才位のお婆さんで、スカーフに隠されて顔は見えないがミカン箱もどきの箱に腰掛けて何やら話し掛けながら治療に専念していた。暗い色の野良着で身を包んでいたので、最初部屋に入った時、気付かなかった程である。しかし、このお婆さんこそが村で評判の整体師だったのである。
 さて、そのお婆さんは予約の患者で忙しいので、グラマー美人が代わって僕の足のマッサージをしてくれることになった。家内が僕の足を抱えて支え、グラマーな農村美人はその逞しい両手で固くなっているふくらはぎを揉みほぐすように丁寧にマッサージをしてくれた。正直、痛かったが、悲鳴を上げるにはプライドが許さず、じっと笑顔で我慢した。30分位続けてくれただろうか。甲斐あってふくらはぎは柔らかくなった。痛みも和らいだように思った。料金を聞いたら60000リラ(4000円)。治療費はその場で手渡し、お礼を言って慌ただしく引き上げた。陽子さんのスケジュールを心配したからである。走り出した車の中で、診療室の様子を撮影しなかったことを悔やんだが、後の祭りであった。こんな出会いもまた、イタリアならではの大変心ときめくものであったからである。車は、広い道に出ると猛スピードで走った。メーターの針は140キロ前後をさして揺れていた。


◆ 親切に感謝しながら
 ディナーの席で、皆に様子を聞かれ、心配をしてもらい、励ましの言葉を頂いた。何人もの方から、湿布薬を頂戴した。こうして貼るんだよ、と実際に貼ってくれた人もいた。手当ての仕方についても、色々助言してもらえた。何と、優しく親切な方たちであろう。皆さんの親切に心から感謝した。
 「今夜のディナーは、ピニャータをお楽しみ下さい」としおりに記されてあった。何だろう?初めて耳にする言葉である。前菜の後に把っ手の付いた茶色の壺が運ばれてきた。蓋を開けて壺を傾けたら、タコの足が出てきた【写真】。柔らかく煮込まれたタコ料理であった。タコ壺そっくりの容器は【写真】ご愛嬌というものだが、穏やかな味付けであり、結構美味しくいただけた。(ピニャータとは、土鍋の一種であると、帰国してから分かった。)


◆ 通訳料
 お世話になった陽子さんに対してのお礼はどうしたらいいか、添乗員の意見も聞いて参考にした。そして、彼が提示してくれた金額よりも多めの金額を封筒に用意して、彼女が現れるのを待った。医師が書いてくれた処方せんの薬を薬屋で買い求め、届けてくれる約束になっていたのである。
 ディナーが終了する頃、彼女は約束通り薬を持って現れた。薬の代金を支払い、お礼の気持ちだと言って封筒を手渡そうとしたら、彼女は受け取りを拒否した。今日の通訳は私のビジネスだから、通訳料として◯万円を頂戴します。そう言って彼女は用意してきた領収書をよこした。勿論、手渡そうとした金額より遥かに高額のものであった。だから、この他に心使いは無用と言うのであった。
 いささか気持ちの上で白けてしまうものを覚えたが、了解した。この国で生きていく為には、このような逞しさがないとやっていけないということであろう。それにしても、この時点までビジネスのビの字も感じさせなかった陽子さん、お見事と言うべきであろうか。その分甘かった自分に忸怩たる思いをしてしまった。

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