★キューバの休日8日間
◆3日目(1月15日)小雨 目次へ
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 8時、夜が明けた。湿度が高くて寝苦しく、夜中に何度も目が覚めた。 道路に面した部屋に泊まった人たちは、夜中中続いた外部からの騒音の為、殆ど眠れなかったとこぼしていた。 道路工事をしていたらしい。
 8時半、街の観光に出発。
◆バスの窓から
 バスが旧市街に入ると、道に沿って並ぶ屋台の店が眼についた。 ちなみに、女性が売っている品々は日用雑貨が主であるが、余りにも雑多である。 玩具の自動車、デッキブラシ、洗濯バサミ、バケツ、タワシ、鉛筆、ハンガー、石鹸、カーラー、 ヘアクリップ、コード、ビニールホース、台所用容器、じょうろ、中身は分からないが何種類かの瓶入り溶液と言った具合。
 親子の屋台には、豚肉が並べられており、子供は集る蠅を追い払っていた。 こうした屋台が、観光バスの通る街の目抜き通りにポツポツと並ぶ様子に、いささか驚いた。行政は、 あえて隠そうとはしていないのだろうか?それとも、頓着しないのだろうか? そんな屋台の姿に市民生活の生の姿を垣間みた感じがした。
豚肉を売る親子
雑貨を売る女性
◆ヘミングウエイ博物館
 最初に訪ねたのは、アメリカの文豪ヘミングウエイ(1899〜1961)が約20年間住んでいたフィンカ・ビヒア邸(Finca La Vigia)。 晩年、自分のことをキューバ人と言った程にキューバを愛した彼の業績はあまりにも大きく、 キューバと切り離して考えることは到底出来ることではない。彼が住んでいた邸宅は、そのまま博物館として管理・解放されていた。 今や、キューバを代表する最大の文化遺産と言えるのではないだろうか。

 敷地内は熱帯の樹木に覆われ、屋根が架けられたプール跡には彼の愛艇ピラール号が保存されていた 【写真右・上】【写真右・下】
ピラール号
赤い花をつけた大木
居間
ダイニング


 彼が住んでいた家は外から覗き見ることしか許されなかった。やむなく外から見える範囲内で書斎や居間を見せてもらった 【写真左・上】【写真左・下】【写真下】。 彼の生活を物語る様々なもの・・・酒瓶・鹿や牛の剥製・書物・タイプライター・机・ベット・椅子・ピカソの絵・等々・・・ それらが語りかけてくるものに、出来たらゆっくり耳を傾けたいものだと思った。スペイン人によって建てられた家だそうだが、 開放的で明るく、落ち着いた感じがして好感が持てた。
 彼に関するガイドを聞き漏らしてしまったので、単に、広い邸内を散策しただけで終わったような気がしないでもないが、 かって彼が生活していた同じ空間を共有できているという実感は得難いものであった。


書斎




 敷地内での文化活動は許可されているとかで、ファッションモデルを志す女の子たちの野外指導が行われていた。 腰を捻り乍ら気取った表情で歩く子ら、何とも可愛い眺めであった【写真右】
モデルの卵たち
◆革命博物館
 元大統領府の堂々たる建物が、革命記念の博物館として解放されていた【写真右】【写真下・2点】

革命博物館
広場に在る記念の戦車
博物館玄関からの眺め

 正面玄関から入るとすぐ正面に左右に分かれる階段があり、その大理石で作られた壁には、 革命闘争当時の弾痕がそのまま残されていた【写真右】。狙われた独裁者バチスタは、危うく秘密の通路から逃げ延びたそうだ。
生々しい弾痕
爪剥がしに使われた拷問器具
ゲリラ戦のゲバラとカストロ

 「しっかり見学しようとすれば半日はかかるよ、時間がないから1時間半で要点を説明します」と言うMさんに従って広い館内を見学して回った。 歴史に沿って、順序良く展示された写真や様々な資料を指し示しながら、彼は要領よく説明をしてくれた。 血痕も生々しいシャツや、拷問に使われた器具や現場写真、悲惨な姿の死体の数々、カストロたちが襲撃に失敗したモンカダ兵営現場の 模型なども展示されていて、視覚的にも大いに理解を助けてくれた【写真左】

 革命運動の必然性、その運動が成功した背景、優れた指導者の力で達成された革命ではあったが、 しかし、そこには膨大な犠牲を伴う苦難の道程があったこと、視覚を通しての見学は、鮮烈であった【写真左下】。 しかも尚、その道程が完結している訳ではないことも素直に理解することが出来た。

 指導者の一人:チェ・ゲバラ(1928〜67)は、既にこの世にはいないが、英雄カストロ(1927〜)は、未だ現役の最高指導者である。 40年来、経済封鎖を続ける大国アメリカを敵に回して、一歩も譲る気配を見せていないのは、さすが筋金入りだと敬服しない訳にはいかない。
 1962年、アメリカの要請を受けてキューバ制裁に同調した多くの国々が、最近次々と国交回復を宣言していると聞いた。 その中に日本も含まれていることを嬉しく思った。何故なら、100%アメリカの言うなりではないことを確認出来たからである。 帰国したら、改めて革命史を繙いてみようかと思う。
◆グランマ号

 裏手の広場には、闘いに使われた戦車やジープ、装甲車、戦闘機、ロケット弾などが展示されていた 【写真右・上】【写真右・下】。 1956年、革命闘争を誓い合ったカストロたち82名の同士が乗船してキューバ上陸に使った歴史的記念のボート:グランマ号(定員8名)も、 現役兵士に守られ乍ら大事に保存・展示してあった。
 定員の10倍の男たちを乗せた上に、武器、弾薬、食料等を積んでの航海、しかも嵐の為に片方のエンジンが故障、 そして座礁するという災難も重なり、その上、バティスタの大軍に容赦なく攻撃されて惨敗。生き延びることが出来たのは12名だったという。 しかし、ゲバラやカストロたちはゲリラ闘争を拡大させ乍ら、遂には革命を成功させた。その原動力になったのがグランマ号だった、 と先程Mさんが語ってくれた話が鮮明に思い出された。殊更に大切に扱われるのは当然だと思った.
戦闘機
戦車
キューバ(革命)ミニ年表
1492年10月27日、コロンブスは第一次航海時にキューバを”発見”する。
1512年1月、スペイン兵300名上陸、征服を始めた。
1823年独立をめざす反乱が拡大する。
1868年10月、第一次独立戦争勃発。
1895年ホセ・マルティ指導の第二次独立戦争が起こる。
1898年スペインに対する独立戦争にアメリカが参戦、キューバの独立。国民の不幸が始まる
1902年キューバ共和国成立。以後 独裁政権が次々と入れ替わる。
1952年クーデターによりバティスタ独裁政権が樹立される。
1953年フィデル・カストロは150人の仲間と共に蜂起、モンカダ兵営を襲撃するが失敗、逮捕され投獄される。
1956年出獄したカストロはチェ・ゲバラらと共にグランマ号でキューバへ上陸、 山中でのゲリラ活動を展開。
1957年革命軍に一部が大統領官邸を襲撃。バティスタ大統領は危うく逃げのびる。
1959年1月1日カストロたちはバティスタ政権を倒し、キューバは独立した。バティスタ亡命。
1962年米国による経済制裁強化作戦が開始され、今日に至る。
◆「ラ・フロリディータ」
 ヘミングウエイゆかりのバー「ラ・フロリディータ」で昼食【写真下・右】。 此処は、観光客人気の店であり、店内はお客で溢れていた。カウンターの奥まった席には在りし日の ヘミングウエィがにこやかに微笑む姿が在った。彼と記念撮影をするのが目的の客も多く、 僕らもその合間をぬって撮影を済ませた【写真下・左】
ヘミングウエイとE夫人と
観光名所の店


キューバ音楽を聞き乍ら

 バーの奥がレストランになっており、此処は格調を感じさせる静かな空間であった。 専属のギタリストと歌い手がテーブルを回り、上質な演奏を聞かせてくれた。 心地良いラテンの旋律に酔い乍らのランチ、リッチな気分を満喫した【写真左】


 食事の最後を締めくくるデザートのケーキには、一旦部屋の照明が消され、赤く燃え上がるラム酒がかけられた。 小皿に切り分けて各テーブルに運ばれてきたそれは、半分アイスクリームで出来ており、 香りも良く上品で美味しい一品であった【写真右】【写真下】

デザートのケーキ
燃えるラム酒をかける


 この店でもE夫妻と同席させてもらい、楽しい語らいをしながらの食事が出来たことは幸いであった。 聞き上手のお二人に乗せられて、旅の失敗談などを聞いてもらった【写真下】
E夫妻と談笑し乍らの食事
◆モロ要塞(世界遺産)
モロ要塞の砲門
 午後の観光で最初に訪れたのがモロ要塞。キューバがスペインに統治されていた時代に、 海からの襲撃を防ぐために建造された要塞で、完成する迄に200年余りの月日を要したと言う。 これほど迄にして堅固な要塞を築く必要があったということは、当時の海賊も相当な力があり 被害も大きかったということだろうか。海に向って並ぶ砲門が、どんな歴史を抱えて今に在るのか、 話だけでも聞いてみたいものだと思った【写真上】

ハバナの街を望む
ガバーニャ要塞
 対岸に見えるのが、ハバナの街。海岸に高波が打寄せ、白く砕け散る様子が奇麗に見えた 【写真上・上】。 港を守るもう一つのガバーニャ要塞も近くに見えた【写真上・下】。 海峡の下をトンネルで繋ぎ、展望の良さもあって現在はハバナのシンボルとして観光客を集めているようだ。

 要塞の中に売店があり、この店でキューバ特産のコーヒーや葉巻が売られていた。 自信を持って奨めるとMさんが言うので、お土産用と自分用にコーヒーを購入した。 社会主義国だから、国内のどの店で買っても価格は同じだという。安心して買うことが出来たが、 反面、買い物の楽しみが少なくなるとも言えそうだ。
◆ハバナ・クラブ
シンボルマーク
 キューバ名産の代表の一つはラム酒であり、その代名詞となっているのがハバナ・クラブである。 奴隷を使っての栽培と作業には、過酷で悲しい歴史もあったようだが、現在でも国の経済を支えている 一大プロジェクトである。この100年以上の歴史を誇るブランド品を扱う博物館を訪ねた 【写真左】【写真下・2点】
ラム酒製造工場の精密な模型
模型の部分拡大(停車場の様子)


 ラム酒は、さとうきびを原料とする焼酎であるが、その歴史と蒸留・熟成するプロセスの説明を聞き乍ら興味深く見学、 最後に試飲させてもらった。初めて口にする酒であったが、意外な美味さを確かめ、気に入ったので早速その場で購入した。 折角だから、中身の濃い7年物を持ち帰ることにした【写真右】
持ち帰った7年もののラム酒
◆旧市街散策(世界遺産)
 植民地時代の面影を色濃く残している地域である。世界遺産に登録されているからには、 その面影の保存にも相当な努力を要することだろうと思い乍ら観光した。老巧化も進み、 あちこちで修復工事が行われていたが、感心したことは、その古さは充分なのに、ゴミくずの類いで不潔になっていなかったことだ。 表通りは勿論のこと、裏通りも然りであった。これは、行政だけの努力では出来ないことだと思う。
◆カテドラル
カテドラル前広場
 ハバナを代表するカテドラル(バロック様式の大聖堂)の前の広場にはオープンカフェがあり、大勢の観光客で賑わっていた。 内装の美しい教会だと聞かされていたが、中に入るゆとりはなかった。広場の石畳も遺産の一部とか。 民族衣装を着飾った女性も居て、それとなく観光客を誘っていた。しかし、世界の観光地に見られることだか、 物乞いをする人の姿は見かけなかった。勿論、警官の姿も見当たらなかった。これは、特筆に値することだと思う。
 「治安の良さには自信がある」とMさんが自慢した。
◆アルマス広場
 アルマス広場にはバザールが立ち、賑わっていた。古本市もあり、沢山の本が並べられていた。 すぐ近くでは、賑やかな音楽に合わせて、野外ショウが繰り広げられていた。沢山の観衆を集めて盛り上がっていたが、 店番の男は脇目も振らず読書に夢中であった。戦後、僕にも活字に飢えていた時期があったが、 ふと、当時のことが懐かしく思い出された。


野外ショー
古本市
◆「薬屋」
薬屋

 通りには様々な店が軒を連ねていた。その中の一軒、薬屋を覗いてみた。天井迄届く棚の中に無数の薬瓶が整然と並べられていた。 飾りなのか、今でも中身が入った薬瓶なのか、確かめることは出来なかったが、いずれにせよその景観には驚かされた。 スペイン文化の名残であろうか。。
◆「郵便受け」
郵便受け

 歩いていたら、建物の壁に口を開けた面白い人面を見かけた。尋ねてみたら、それは飾りを兼ねた「郵便受け」であった。 探せば、他にも面白い「郵便受け」があったに違いない。こんなちょっとした遊び心に、世界遺産に相応しい古き良き時代のゆとりが偲ばれた。
◆ホテル・アンボス・ムンドス
愛用した部屋

 街の一角にヘミングウエイが常宿にしていたという「ホテル・アンボス・ムンドス」があった、 エレベーターに乗り5階にあるその部屋を訪ねた【写真左】


 当時のまま保存されているその部屋には、ノーベル文学賞のメダルや「老人と海」の初版本が保存されていた。 彼が使ったというタイプライタとかシングルベットに触ることも出来た【写真右】【写真右下】。 角部屋になっている窓からは、赤い屋根の旧市街を一望することが出来た【写真下】。 仕事の合間に、彼は葉巻をくゆらせ乍ら、この同じ景観を眺めていたのだろう。そんな彼の姿を想像した。狭い部屋であった。

窓から見える旧市街
[老人と海]の初版本
愛用したベット

一階ロビーには、映画化されて評判をとった俳優スペンサートレイシーとヘミングウエイの写真等が展示してあった 【写真右】【写真下】。 懐かしい映画である.機会があったらもう一度観てみたいと思う。


ヘミングウエイのサイン

スペンサートレイシーとヘミングウエイ
◆ショッピングセンター
 ディナータイムまでの自由時間を使って、ショッピングセンターを覗いてみた。 中庭にはテーブルが並べられており、楽士たちの演奏を聞き乍らお茶を飲む人たちの姿があった【写真右】。 吹き抜けの中庭を囲んでいろんな店が並んでいた。お土産にTシャツを1枚買った。 ガイドのMさんが、この店でせっせとお手伝いをしていたので、ちょっと驚いた。残った時間は、 椅子に座って休ませてもらったが、地元の男が話しかけてきて、自分の店に来てくれれば、もっと安くしてあげられる、と誘った。 何処の社会にも、裏があるようだ。
ショッピングセンター中庭
◆「LA BODEGUITA DEL MEDIO」
 細い路地を入った中程に、バー&レストランの「LA BODEGUITA DEL MEDIO」という店があった。 「通りの真中にある小さな店」という意味だそうで、味の良さではキューバ随一の有名店だとか、 壁には店を訪れた世界の著名人の写真が飾られていた。この店でデイナーを頂く。 残念ながら格別に感動するような料理ではなかった。テーブルにヘミングウエイのサイン入りマットがあったので、 記念に頂いた【写真下】。 落書き自由ということで、天井近くまで無数のサインで埋め尽くされていた【写真右】。 2度と訪れることはないと思ったが、記念に僕のサインも画面右下の隙間に漢字で書き記しておいた。 誰か、見つけ出してくれないかな。


ランチョンマット
お客のサインと写真で埋められた壁面
◆トロピカーナショー
 一度ホテルに帰り、9時、希望者はそれぞれ衣装を改めて、再度バスに乗り込み会場に向った。
何しろ.世界三大ショーの一つと言うことだから、見ておかない手はない。


華麗なダンシング
立体的な舞台


 郊外にある会場は、大木も茂る野外に立体的なステージが組まれていた。 客席はそれに向って扇形に作られており、案内された席は楽団フロアーの下、セカンドクラスと言わざるを得ないが仕方がない。 場内は、既に満席に近い盛況であった。10時、開演。12時迄、ショーは休憩なしで展開された。 運ばれてきたコーラとラム酒をカクテルにして飲み乍ら、楽しませてもらった。華やかな踊りは勿論、歌ありアクロバットあり、 息詰まるような曲技ありで、時間は瞬く間に過ぎた。フィナーレは、ダンサーや歌手が全員出場、そして客席まで降りてきて客と踊った。 その陽気なパワーに圧倒されながら、なるほど世界的ショーとは、こんなものかと納得させられていた。


デュエット
ダンサー
客席に降りて来た踊り子
 毎夜くり広げられるこの華麗なナイトショウは、革命以前からの歴史を誇り、現在は国営とか。 観光収入のトップクラスを占め、国の財政を支えているらしい。世界の一流を維持し、世界から観光客を引き寄せ、 その評価に応じて年々料金も上げている商売上手。社会主義国家キューバのしたたかさを見せつけられた思いである。
ライン


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